観劇日記

観劇とその他の日々

1月2日(月)晴れ

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年末年始の読書用にと買っておいたアリ・スミス『春』を開いたらスピンが短かった。こんなことあるのか。珍しいという意味ではあたりだと思いたいが本の下からはみ出させられないのは使いづらい。

今日も海まで散歩。

仕事は立て込んでいるものの〆切はどれも微妙に先なので資料映像や台本の確認などして過ごす。助成金の申請書も書くが進まず。合間にお節とすき焼き。我が家は元旦の夜はカニ、二日目の夜はすき焼きが定番です。お雑煮は元旦が澄まし汁、二日目は白味噌白味噌雑煮は普通の味噌の倍くらい味噌を入れないとうまくないとのこと。

イン・イーシェン、リベイ・リンサンガン・カントー編『イン・クィア・タイム』(原題SANCTUARY、村上さつき訳)読了。面白かったのはアンドリス・ウィサタ「よぅアダム」(インドネシア)。全てを吹き飛ばすオチに「この話、クィアである必要あった!?」となるのだがもちろんそこがいい。オチがそれ自体としては割とよくあるものなのにこの本の並びでは全く予想できないところも◎。他には軽妙な語り口で描かれるクィアな登場人物とそのパートナーの家族との結びつきがグッとくるディノ・マホーニー「バナナに関する劇的な話」(香港)、ファンタジーとリアルが表裏一体のアヴィディア・ユー「呪詛」(シンガポール)、ポルノホラーなアッシュ・リム「生理現象」(シンガポール)あたりもよかった。と書いてみて、あれをホラーと言ってしまうのはエイジズムでは?と思いもしたのだが、どう考えても笑える怖いオチとして書かれているし、その笑いも怖さも結局のところ我が身に返ってくるところが巧いのだと思い直す。

17編で350ページと各編が短めなのもあってか物足りなく感じる作品も。スー・ユーチェン「お茶休憩」(台湾)は原語が二人称的な語りなのに「この語り手が誰なのかな解釈を幅広くとっておくために敢えて三人称視点っぽい口調で訳しました」って翻訳者がコメントしてるんだけど、そんなんあり?それはもはや別の作品では??

マイノリティの物語が紡がれることが重要であることはもちろんとして、だからと言ってクオリティが低くてもよいはずはなく、でも現状としてはそれはどうなんだと思わされるものも多い。そういう作品に触れるたびに、マイノリティであるというただそれだけのことでこの程度の物語で満足しなければならないのかと悲しく、そして怒りを感じる。その作り手がしばしば当事者であることも気持ちのやりどころを難しくさせる。絶対数が少ないからそうなのだと言えばそうなのだろうし、打率はむしろ高い気もしなくはないのだけど、でもやっぱり面白い作品にたくさん触れたい。そのためにも、もっと多くのマイノリティの物語が紡がれてほしい。